ヒロミが今から34年前に負った大怪我。そしてその治療中、不思議な体験をしたという。再現ドラマで紹介した。
90年代、お笑い界は西のダウンタウン、東のウッチャンナンチャンなど第3世代の時代。そんな中台頭してきた、ヒロミがリーダーを務めるB21スペシャルは、過激な企画で人気を博していた。
しかし、過激な企画をやるのはいつもヒロミ以外の2人、デビット伊東かミスターちん。「なぜヒロミはやらないんだ」という視聴者からの抗議が殺到。当時26歳のヒロミは、初の冠番組で視聴者の意見を大事にしなければと考え自ら企画を提案。それが「ロケット花火1万本を背負って宇宙に行く」という前代未聞の挑戦だった。
スタッフは安全面を考慮し、断熱板を入れるなど入念な準備を重ねた。1m四方の箱にロケット花火1万本を詰め、一気に点火する方法を考案。本番では、さらなる安全策としてレーサーが着用する耐熱スーツも用意された。
もちろん、ロケット花火で宇宙に行けるはずもない。「火をつけて、浮かねぇじゃねえか!」というオチを想定していた。
約1000人の観客が見守る中、収録が始まった。しかし、この日は台風の接近で強風。さらに、箱を背負ってみると足元にカバーがないことに気づく。だが、自分から言い出した企画。人も集まっている。「まあ、大丈夫だろう」と思い込んでしまった。
カウントダウンが始まり、1万本のロケット花火に一気に点火された瞬間、強風により熱風が足元へ向かいヒロミは炎と煙の中に包まれた。観客の前では「ただいま宇宙から戻りました」と気丈に振る舞ったが、実は下半身は大変な状態になっていた。
スタッフの手が太ももに触れた時、皮膚がズルッとした感触があったという。しかし、ヒロミ本人は気づかなかった。なぜなら、やけどの症状で最も重いⅢ度熱傷の状態だったからだ。皮膚の皮下脂肪まで傷害が及び、神経も損傷して痛みを感じない状態になっていた。
「大騒ぎになるから」と救急車を拒否するヒロミ。しかし、状況は深刻だった。近くの病院に運ばれ、そこでⅢ度熱傷と診断される。
成人の場合、体の15%以上の広範囲のⅢ度熱傷を受けると命の危険があるとされる。ヒロミは体の25%をやけどしており、まさに生死をさまよう状態だった。
火傷により血管が損傷を受けるとその穴が大きくなり、極端に多くの液体成分が漏れ出してしまう。熱傷部分が広範囲になると、血管内からどんどん水分が漏れ出て血流が滞り、脳や心臓に血液が回らなくなる危険性があった。
実は、これが初めての死線をさまよう体験ではなかった。18歳の時、車の事故で内臓破裂という重傷を負い、医師から「手の施しようがありません」と言われた経験があったのだ。
その時、意識のないヒロミは不思議な体験をした。自分の体の上から、見舞いに来た友人たちが大騒ぎする様子を見ていたという。
ヒロミの母は、息子の今回の入院に強い覚悟を抱いていた。そんな重苦しい空気の中、病室に思いがけない来客があった。当時、絶大な人気を誇るアイドルで、その後ヒロミと結婚した松本伊代だ。
多忙なスケジュールを縫って病院を訪れた伊代だが、強い痛み止めで意識がもうろうとしているヒロミとは直接言葉を交わすことができなかった。母親と静かに会釈を交わし、ベッドで横たわるヒロミの様子を見守ることしかできない。それでも彼女は何度も足を運んだという。
翌日、意識が戻ったヒロミの最初の言葉は「ドッキリ」だった。なぜ自分が病院にいるのか、記憶が途切れていたのだ。そこで医師から告げられたのは、皮膚移植が必要という厳しい現実だった。
移植手術は極めて繊細な作業。やけどをしていない正常な部分から表皮と真皮の一部を切り取り、火傷部分に移植。切り取った皮膚には網状の切れ目を入れ、ひし形のような空間ができる状態で貼り付けていく。時間をかけてその空間部分に新しい皮膚が再生していく術式だ。
「取り除く正常な皮膚ですが、お腹かモモの前の部分で考えています。どちらがいいですか?」という医師の問いかけに、朦朧とする意識の中でヒロミは「足の前かな」と答えた。こうしてモモの前部分から採取した皮膚の移植が行われ、その部分は時間をかけて血管や神経が再生していくことになる。
しかし、その後の治療は想像を絶する痛みとの闘いとなった。医師からは「痛みがあるということは皮膚が順調に根付いている証」と説明されるも、その痛みは尋常ではなかった。
強い痛み止めの投与で意識が朦朧とする日々。そんな中、再び不思議な体験が始まる。痛み止めで朦朧とする意識の中、女性とその娘らしき声が話しかけてきた。「お兄さん大丈夫?」「痛いのに大変ね」。あまりに自然に話しかけてくるので会話をしたが、振り向くと誰もいない。
さらに病室の入り口には、毎日牛乳を飲むおじさんが現れた。実はヒロミが入院していたのは無菌病棟。飲食は厳禁のはずだった。それでも1か月もの間、そのおじさんは現れ続けたという。
この時、ヒロミと密かに交際していた伊代も多忙の合間を縫って見舞いに訪れた。ヒロミに、彼の好きな缶詰のみかんを食べさせてあげたというが、ヒロミ自身はその記憶があまり残っていないという。
壊死した皮膚を取り除き、やけどしていない部分から皮膚を移植した治療。深いやけどの場合拘縮という症状が起きることがある。それは皮膚組織が治ろうとする際、周りの組織を引っ張り合う症状だった。そうなると関節の場合、曲げ伸ばしができなくなる可能性があったが、ヒロミの場合事故当時にしゃがみこんでいたおかげで関節の裏側の皮膚は守られていた。
その後のリハビリでは、全身がかさぶたになった際の耐えがたい痒みや、思うように動かない足との戦いが続いた。
そんな中、自分の企画でこんな事故を起こして、まともに歩けもしない。もうテレビには残れないだろう」と芸能界を引退してハワイでコーディネーターになることを考えた。しかし、その決断が逆に気持ちを楽にした。
驚くべきことに入院中にドラマ撮影も敢行。以前出演していたドラマの特別版で、どうしても必要な1カットを病室で撮影することになった。足も満足に動かない状態で、スタッフに支えられながら結婚式のシーンを演じた。
1991年10月31日、事故から約2か月半後、ヒロミは芸能界に復帰。結果的に、ハワイのコーディネーターという道は選ばなかったが、この経験は彼の人生の大きな転換点となった。
今年還暦を迎えるヒロミ。34年前のあの体験を通じて、彼は生と死の境界、そして生きることの意味を深く考えることになった。「生きるって痛いんだな」。その言葉には、苦痛と共に生きることの実感が込められている。