「あの時、ユーミンはショービズの神様に守られてると思った」40年間ライブをサポートしてきた武部聡志がもっとも驚いた事件【松任谷由実×武部聡志】
3000人以上のミュージシャンと仕事をしてきた音楽プロデューサーの武部聡志。彼だからこそ語れる“究極のボーカル論”が1冊の本となった。『ユーミンの歌声はなぜ心を揺さぶるのか 語り継ぎたい最高の歌い手たち』だ。
刊行を記念して、タイトルにもなっていて40年以上の付き合いがある、ユーミンこと松任谷由実との対談が実現した。1970年代から音楽界を牽引している二人が、ライブの裏側を語り合った。〈全3回の1回目〉
ユーミンと武部聡志の出会い
――おふたりが出会ったのは、武部さんが初めて由実さんのライブに参加した1980年「BROWN’S HOTEL」ツアーの時ですね。どんなことを覚えていますか?
松任谷由実(以下、ユーミン) あの頃、武部さんは音大生でしたね。私たちはまだ70年代の空気をまとっていて、70年代と言ってもグラデーションがあるけれど、私がデビューした70年代前半や、結婚した76年頃とも違う、70年代後半の色があったんです。
その70年代後半の色や空気を、武部さんとともに思い出します。ボートハウスを着て、モカシンを履いてという、そんな雰囲気だったね?
武部聡志(以下、武部) うん、あの頃は『POPEYE』とか、そういう雑誌が流行りはじめた頃だったから。
ユーミン そうそう、アイヴィー風な感じ。武部さんとはよくパフェを一緒に食べに行きましたね。
武部 よく覚えているのがロイヤルホストです。
ユーミン ロイホにCCブラウンサンデーというメニューがその頃あったんですよ。
武部 それを一緒に食べたのが、初めて会った日の夜でした(笑)。あの頃はよくユーミンやツアーメンバーと一緒に車で出かけて。
ユーミン 近郊ならメンバーの車で移動する、みたいな感じでしたね。武部さんの車にも乗ったし、山梨まで2時間くらいかけて行ったこともある。
武部 2、3時間圏内なら、誰かしらメンバーの車にユーミンも乗っかるんです。それで世田谷エリアには車をとめられるファミレスが何カ所かあったから、仕事帰りの深夜にそこへ寄って。
ユーミン なにか学生の頃の気分に戻りますね。私はもう学生じゃなかったし、武部さんもほどなく卒業しちゃうけれど、遅れてきた青春だったのかもしれない。東京の学生ノリのまま、私たちは東京の音楽をやっていた。
武部 そう。そもそも僕は、ユーミンや松任谷(正隆)さんのチームがやっていた音楽に憧れて、高校生の頃プロになりたいなと思ったんです。それがまさか、実際に出会い、こういうお付き合いを続けることになるとは思わなかった。おそらくキーワードは、その“東京の学生ノリ”だと思う。
ユーミン フォークとか歌謡曲とか、もちろん芸能界は別として、そういうものと我々は一線を画していたよね。
武部 そうかもしれない。あと僕らの共通項と言えばムッシュ(かまやつ)。
ユーミン 私もかまやつさんとは親しかったしね。
武部 僕がユーミンのバンドに加わったきっかけはムッシュでしたから。ムッシュのバックバンドを一緒にやっていたメンバーと一緒に、ユーミンのライブに参加したのが80年でした。
ユーミンのライブにある強い信念とは
――その後、83年から武部さんは由実さんのライブで音楽監督を務めるようになります。
ユーミン あれは「REINCARNATION」ツアーの時だった?
武部 そう、鮮明に覚えています。初日がユーミンも初めて日本武道館でやるという7月6日。ものすごく気合いが入っていたし――。
ユーミン 画期的だったよね。
武部 ユーミンも僕らも、スタッフに至るまで、みんなで歴史を作るんだという意気込みがあって。
ユーミン うん、誰もやっていないことをやったね。例えばバリライト(色彩や光量、光の方向を遠隔操作するシステム)がまだなかった頃に、“人間バリライト”というのをやったりとか。ひとつのスポットライトが……あの頃はどれくらいの大きさだったかな。
武部 小さいのじゃなくて、ピンだもんね。スタッフが何十人もうしろに付いて。
ユーミン 照明の人たちがまるでコンチェルトのように集まり、プランナーの指揮に合わせるかのようにして、ここではこの角度で光を当てるというリハーサルを何度もした。曲のテンポに合わせて、光を波打たせるとか。それをすべて人力でやるんです。
それからちょっとして、フィル・コリンズが在籍したジェネシスのツアーで、初めてバリライトが使われてね。
武部 みんなのテンションが高かったし、達成感もすごくありました。その後、87年の「DIAMOND DUST」ツアーから松任谷さんが演出するようになると、やはりユーミンの音楽をいちばん理解しているわけだから、音楽の世界と演出の親和性がより高くなっていって、90年の「天国のドア」ツアー頃までは、毎回新しい機材を導入する実験のような場でした。つねに刺激的でしたね。
ユーミン 最初にまず苗場で試して、それをツアーに持っていく。ライティングのタイミングがコンマ数秒ずれても気持ち悪いから、それを全部打ち込みにしていったりとか。
武部 音楽とライトをシンクロさせるために、当時は僕が電飾のスタジオに行って、打ち込んだりもしましたよ。
ユーミン だから私たちは“ライト兄弟”なんです(笑)。そこからいろいろなレギュレーションが進化していったし、武部さんは音楽監督ではあるけれど、アートを作り上げる一員として、ミュージシャンたちを牽引してくれていたと思います。
武部 ポップミュージックとしてショーの完成度を高めていくという意味では、ユーミンが先駆者ですよね。今ではいろいろなアーティストがやっているけど、当時はコーラスが踊るなんてありえなかった時代だし。
ユーミン マドンナよりずっと早かったよね。インカムを付けて、一緒に踊ったのは。
武部 1988年の「Delight Slight Light KISS」ツアーの時には、上下するセンターのステージからユーミンが――。
ユーミン 落ちたんだよね。ステージがあると思って後ろに下がったら、あれ、ないなって。
武部 ゲネプロの時だったけど、それはもう驚いたこと。
ユーミン あの時、竹ひごみたいなワイヤーの入った、四角いスカートをはいていたんですね。それをはいていなかったら、背骨が折れて死んでいた。でもワイヤーがクッションになって、助かったんです。
武部 だから怪我ひとつなくて。
ユーミン ね? 何かに守られてますね。
武部 「REINCARNATION」ツアーで音楽監督を務めてから、もう四十数年でしょう? でも調子が悪くてステージを飛ばしたとか、中止したとかいうことが、ユーミンはいっさいないもんね。
ユーミン うん、ないね。捻挫していてもやってたから。
武部 天候の問題でできなかったことはあるけど、ユーミンの都合でショーがなくなったことは一度もない。それは本当にすごいことです。やはり並外れた集中力と気合いみたいなものを持ち合わせているからこそ、これまでいろいろなことを乗り越えてこられたんでしょうね。
ユーミン 山伏の火渡りみたいな(笑)。心頭滅却すれば、なにも熱くないっていう。だからできちゃう。
武部 なによりユーミンはショービズの神様に守られているんだと思う。
ユーミン ああ、そうかもね。
武部 やらなきゃいけない人として、神様からミッションを与えられてるんだと思いますよ。
#2に続く
取材・文/門間雄介 撮影/伊藤彰紀
武部聡志ヘアメイク/下田英里 松任谷由実ヘアメイク/遠山直樹
日本で1番多くの歌い手と共演した音楽家が語るかつてない“究極のボーカル論”――。真の「優れた歌い手」は何が凄いのか?音程やリズムが正確な「うまい歌い手」であっても、それだけでは時代も世代も超えて人々の心を揺さぶる「優れた歌い手」ではない。彼らはテクニックではなく、もっと大切なものを音楽に宿しているのだ――。1970年代から音楽界の第一線でアレンジャー・プロデューサーとして活躍し、日本で一番多くの歌い手と共演した著者が、松任谷由実や吉田拓郎、松田聖子、中森明菜、斉藤由貴、玉置浩二、MISIA、一青窈など、優れた歌い手たちの魅力の本質を解き明かす。【目次】はじめに第一章 松任谷由実第二章 吉田拓郎第三章 時代を変えたパイオニア第四章 80年代アイドル第五章 男性ボーカル第六章 女性ボーカル第七章 歌い手を生かすプロデュース術第八章 未来を託したいアーティストおわりに
歌い手年表と武部聡志の仕事歴